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相談員から一言 バックナンバー

『胆管がん発生報告から1年』

 昨年(2012年)の第85回日本産業衛生学会(名古屋)で産業医科大学 熊谷信二准教授らが報告した「オフセット校正印刷労働者に多発している肝内・肝外胆管癌」以来、産業保健・衛生領域ではこの話題が中心の一つになっている。

 報告の大要は、あるオフセット校正印刷会社(A)の元従業員から「肝臓がん」「胆管がん」が複数発生しているが職業関連性のものではないか、との相談を受けたのが切っ掛けとなって、その後に合計5人の患者が確認された。

 いずれもA社の校正印刷部門の元男性従業員(勤務歴8~11年)で、肝内胆管癌あるいは肝外胆管癌を発症し、うち4人がすでに死亡していたとするものでその特徴は、発症年齢が25~45歳と若く、発症までの期間が7~19年と極めて短い点であった。

 作業は主に校正印刷で、刷り上がりの確認のために、本印刷の前に少数枚の印刷を行う工程である。校正印刷は版交換を頻繁に行うため、インクロールやブランケット用洗浄剤の使用が非常に高く、常時6台ある校正印刷機のいずれかで版交換が行われている状態であった。5人の勤務時に使用していたインクロール洗浄剤は灯油、ブランケット洗浄剤は1,2-ジクロロプロパン、ジクロロメタン、1,1,1-トリクロロエタンを含む溶剤、その他にもインクおよび光沢剤などがあった。作業場の換気は、排気が印刷機下部の床に設けられた排気口から行われ、呼吸保護具は支給されていなかった。

 考察の中で演者らは、肝内・肝外胆管癌のリスク因子として、原発性硬化性胆管炎、胆管の奇形、ウイルス性肝炎、肝吸虫の寄生、肝管結石、化学物質などを挙げたが、最初の4疾患については、いずれの対象者でも既往歴がなかった。胆管結石については、胆管癌発症時の画像検査で初めて指摘された者もいたが、それ以前に臨床症状を呈した者はいなかった。リスク因子となる化学物質としてはトロトラストがあり、ニトロソアミンなども疑われているが、今回の例ではこれらの物質への曝露は認められていない。

 一般に、肝内胆管癌および肝外胆管癌による死亡率は低く(2005年男性,肝内2.61人/10万人, 肝外7.85人/10万人)、年齢とともに上昇する傾向がみられる。元従業員の記憶によれば、1990年代および2000年代前半にA社校正印刷部門に1年以上勤務していた男性従業員は約40人、そのうち、演者らは5人が胆管癌を発症し、4人が死亡したことを確認したことになる。発症年齢も若い。
 この事実は、仕事で使用した化学物質が胆管癌発症に関与していることを強く推測させるものである。
 これが熊谷・車谷発表の大要であるが、1年を経過した現在(2013.4.3)、印刷会社の会社と社長が労働安全衛生法違反(事業者の安全衛生措置義務違反)の疑いで書類送検する方針が示されている。
 話題提起以来、印刷工場従業員ら17名が胆管がんを発症しうち8名が死亡していることが判明し、その原因が1,2-ジクロロプロパン、ジクロロメタン、特に前者の曝露が大いに寄与したとされている。胆管がん発症のメカニズムは不明な部分が多いが、発表の中で演者らも適切なメカニズムついて言及している。

 先日(2013年3月28日)開催された日本産業衛生学会、関東産業衛生技術部会(田中茂・部会長)の研修会で、産業医学振興財団理事長、慶応大学名誉教授 櫻井治彦先生が胆管がん発症のメカニズムについて示唆に富んだ話をされたが、少し紹介させていただく。
 熊谷報告のあった以降、現場で行われた模擬実験の他、様々の検討結果を以下のように纏めた後、

① 印刷工場従業者のジクロロメタンは400ppmを超えたと推測されるが、その期間はおおむね3年であったこと
② 労働安全衛生総合研究所が実施した模擬実験の結果、化学物質の使用量から推定される作業場の環境濃度、及び洗浄作業を行っていた作業者の個人ばく露がより高くなる傾向を踏まえると、1,2-ジクロロプロパンは、その使用期間(おおむね15年)を通して150ppmを超える高濃度だったと推測できること
③ 胆管がんを発症した16名全員が曝露した化学物質は、校正印刷業務で洗浄剤として大量に使用されていた1,2-ジクロロプロパンで(平成3年~平成18年)、16名中11名はジクロロメタンにも曝露していたこと(平成3年~平成8年)
④ 5名は1,2-ジクロロプロパンのみの曝露だったことから、塩化炭化水素類の代謝について、通常は、肝臓での代謝が最も多く、また代謝の過程は酸化経路の(シトクロムP450、別名CYP)第1相、抱合の第2相、酸化経路を経ないグルタチオンと抱合などの形で代謝されるが、生じた中間代謝物の生物学的活性は高く、生じた中間代謝物が核酸と結合する確率が高くなる。
 
一方で、グルタチオン-S-トランスフェラーゼ、グルタチオン抱合を触媒する酵素は細胞質内に溶存し、人の胆管上皮細胞の核内に局在することが証明されている。さらに、核内のクロマチン(DNAの存在する構造物)の近傍で、活性代謝物が生成すると、DNA付加体が形成され、突然変異、発がんに結びついた結果、胆管癌が発生したと櫻井先生は考えておられる。

 本来、生体内に侵入した有害物質の毒性は、体内の代謝系によって大きく左右される。一般に、脂溶性物質(無極性)は酸化ならびに抱合体形成などによって水溶性物質(極性)に変えられて体外に排泄される。吸収された化学物質のあるものは、例えばエステル、アミド化合物群は血中や血球中のエステラーゼやアミダーゼ(加水分解酵素の一種)によってカルボン酸とアルコールあるいはアミンに分解され、この段階で極性化される。大部分のものは血液に乗って肝臓に運ばれ、肝臓では種々の酸化反応(水酸化、N,O-脱アルキル化、エポキシ化)、還元(ニトロ基、アゾ基、N-オキシド)、加水分解のほか抱合反応(グルクロン酸抱合、硫酸抱合、グルタチオン抱合)が活発に行われる。多くの場合、このうちいくつかの反応が重複して起こり、多種類の代謝物が生成する。例えば、トルエンはメチル基の水酸化に続き、カルボン酸まで酸化され、さらにグリシンと結合して馬尿酸となって排泄されるが、安息香酸としても一部排出する。これらの代謝される場所は肝臓が主であるが、物質によっては肺、腎、筋肉、胃壁、皮膚、脳でも行われ、毒性化や解毒に重要な役割を有している。肝に次いで代謝を行なう器官は腎であるが、ここでは酸化、還元、グルクロン酸抱合が行われる。多くの化学物質は大部分が体内で代謝され、無毒化されて体外に排泄されるが、化学物質によってはその過程で毒性あるいは発がん性を持つ中間代謝物に変換されるものもある。

 塩素化炭化水素類のうち使用頻度が多い物の代表にトリクロロエチレン(トリ)がある。引火性・発火性がなく金属脱脂用溶剤として使用されている。トリの体内吸収・代謝・排泄などの生体作用・影響はかなり研究され、代謝物のトリクロロ酢酸、トリクロロエタノールの量から体内吸収量がある程度推定出来るようになっているし、クロロホルム、四塩化炭素など塩素化炭化水素類の曝露と生体影響関係に関する論文や報告は多い。しかし、今回対象となった1,2-ジクロロプロパンに関する論文は少ない。また、体内に入った1,2-ジクロロプロパンがどのような経路で肝臓および胆管に移行し、発がん性を示すか、その原因は明らかになっていない。

 行政は労働災害認定という形でけじめをつけるようだが、果たしてそれでいいのだろうか。そもそも、このような結果を招来するまで何もしなかったことへの責任はどうするのか。当然、現場の管理が不十分であったことは論をまたないし、管理する立場にいたメンバーが何もしなかったことの責任は無視できない。労働衛生、産業保健に携わるわれわれももっと現場に出て現場から学ぶ姿勢を再確認する時期にあるのかもしれない。
 
(文責)相談員  中明 賢二
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