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相談員から一言 バックナンバー

『私の産業医人生』

 1974年から約26年間にわたって、数々の中小企業の嘱託産業医をさせていただいてきたが、産業医は大きく分けて、より専門性を必要とする大手企業の専属産業医や研究所、大学、専門病院など研究者の最先端産業医のグループと一般病院やクリニックなど地域医療をしながら嘱託産業医をしている最前線産業医のグループに分けられるように思える。それぞれに役割があるが、私が関与している後者についていえば日常診療をしながら予防注射など行政にかかわる様々な仕事や学校医、往診など、かなり目いっぱいの医療の中で産業医をしているという現実があり、社会ニーズに十分こたえられていない部分もあるが、それはそれとして専門家や会社の安全衛生担当者と連携を取りながらケースバイケースで対応していくことで役割を果たしているといえる。
 
 中小企業の場合は今日のような社会情勢の中で経営および運営自体が大変厳しい環境下にあり、会社も生き物であるので、会社そのものの健康管理が大変で、そこで働いている社員の安全衛生管理までなかなか徹底していないという現実も大変な問題である。ただし、視点を変えれば中小企業の規模だからこそやりやすい、できるという利点もある。つまりできるということである。
 
 神奈川県においては神奈川産業保健推進センターおよび地域産業保健センターなどの体制が整備されていて、産業医や安全衛生管理者などがとても活動しやすい環境になっていて、だいぶ意識改革も浸透してきているといえる。この20年間を見ると、さまざまな要因があるにしても、労働災害および業務上疾病は確実に右肩下がりに減少していて、今後さらに減少していくことが予想される。作業環境管理や職業性疾病予防対策も実施され改善されてきたがこれは専門的領域といえる。健康保持対策については健診結果事後処理が産業医の重要な仕事であり、最終結果まで責任を持つこと、特にハイリスクグループについては必ず個人面談して、きちっと説明する義務がある。
 
 過重労働については会社側の対応が重要である。
 メンタルヘルスについては、現代人の社会からの孤独化現象について複雑な要因があり、かなり難しい問題がある。専門の産業医の先生方が大変苦労されているところである。この20年間の精神性疾病はメンタルヘルス対策で量質ともに減少傾向の効果が見えてきているのだろうか、これからどのように推移していくのか。大変深刻な問題である。

 快適職場づくり対策は取り組み方によって最も期待されるところである。みなの働く意欲が自然に出てくるようなチームワークと職場環境づくりと、視野が広く、リーダーシップがとれる総合力のある上司の育成がポイントになる。現場での責任者の影響力が大きいだけにこれは大変重要で、産業医の立場でよく観察していて現場の意見次第では上司の個人面談をして改善する必要がある。その一方で、我々産業医も気持ちを引き締めてさらに進歩していくことが要求されている。

 ここでちょっと自分の過去を振り返ってみることにした。
   『あれから40年』

 昭和44年に母校の大学付属病院内科に入局し、「気管支喘息と感染、特にウィルスとの関係について」先輩の仕事を引き継いで一緒に研究した。当時吸入療法による予防が始まったばかりで、インタール吸入薬、その後アルデシンやベコタイド吸入薬などのステロイド吸入薬の時代をむかえていた。日本アレルギー学会のドンであり恩師でもあった川上保雄教授のカバン持ちであちこちの研究会や学会に同行した。今ではこの10年間の全ての疾患の中で気管支喘息は最も治療と治療薬の進歩がみられた疾患の一つといわれている。特に大学病院や専門病院で入院や喘息死が激減し、クリニックでは、ほぼ100%コントロールが可能になったといえる。私が入局した頃を思えば驚嘆すべき医療の進歩である。
 
 入局した当時は先輩の先生から「0時前には帰るな、それが勉強になるから、頭より体で覚えろ、体力勝負だ」といわれ仲間達と花の無給医局員時代の多忙で楽しい毎日を過ごした。救急はじめあらゆることをバケツの水を頭から浴びせかけられるように経験した。恩師の川上保雄元教授は97歳の今でも現役として大学病院の気管支喘息専門外来をしている。高橋昭三前教授には博士論文で大変お世話になった。81歳で健在である。そして現職の足立満教授は2年後輩で、一緒に気管支喘息をやってきた。吸入ステロイド療法やロイコトリエン受容体拮抗薬などをいち早く取り入れ治療法を確立して、エネルギッシュにグローバルに学会等で啓蒙活躍され、今日の気管支喘息治療に多大な貢献をしてきた。医局の伝統は脈々と引き継がれていて、医療制度や体制が変遷してきた今日でもボスが健在ということは我々にとっては心強い限りである。教授にはいろいろ教えていただいた。回診の時の「スタチオネール」だけはどういうわけか覚えている。当時はなんじゃいなと思っていたが、今ではこの言葉が最も重要であり、医療介護、人生の究極の原点と思い大切にしている。
 
 その後は厚木医師会で地域医療をしてきたが、実によくまとまっている医師会で、行政とのチームワークも良好で、多くの仲間たちと様々な事業に携わって地域医療に貢献してきた手ごたえと医師としてのある程度の責任を果たせたと思っている。 特に「厚木方式による救急医療ネットワーク」はよく機能していて、行政や地域住民から高い評価を得ている。その一方で30数年間働いていた病院を突然退職することになり全てを清算して、「流浪の民」となっていた時に、多くの先輩や仲間たちに声かけしていただき、今までとは別の世界で医療福祉など様々なことをやらせていただいてとても感謝している。石渡弘一センター長とは30年前から当時の国立がんセンター呼吸器科、肺がんの世界的権威であり気管支ファイバースコープを初めて実用化した池田茂人先生の肺がん研究会の胸部カンファレンスで毎月夜遅くまで一緒に勉強していた関係で、今は神奈川産業保健推進センター相談員(産業医学)としてお世話になっている。

 遊び系について少し話してみよう。学生時代はサッカー部、メキシコオリンピック銅メダルの釜本、杉山、森選手と同世代、白馬診療部で6年間山登りなど、厚木に来てからは男声コーラス、カンツオ―ネ、毎年元旦恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサートの楽友会ホール、コロンブスが航海に出た港町イタリアのジェノバ、帝国ホテル孔雀の間、厚木ロワジールホテルなどで歌ったこともありました。音楽鑑賞はクラッシックから演歌まで様々なジャンル、森麻季、千住真理子、星村麻衣、エカテリーナ、サラ・ブライトマン、IL・DIVO、坂本冬美&二葉百合子、細川たかし&長山洋子などなど。家の近くの青葉台のフィリアホールは、こけら落としのときからずーっといっている。学生時代どこかの女子大のダンスパーティーの時だった。渡辺貞夫がちょうどアメリカ帰りで目の前の手の届きそうな所でアルトサックスを吹いていた。北村英治、寺内タケシ、ロスプリモスの森聖二(最近亡くなったらしい)などみながんばっていい味出している。ザ・ベンチャーズのテケテケは毎年聴かないと夏が終わらない。ビートルズのリマスター盤発売などすべてがあれから40年である。
 
 今は医師会仲間の先生に金魚すくいの網ですくわれるように助けられて、彼の介護老人保健施設の施設長をしているが、高齢者がとても元気で、顔色もよく、言語障害や片麻痺まで改善してくるのにはびっくりした。いろいろ話をしているととてもおもしろいし、一人一人が人生の宝の山である。私も一緒にカラオケをしたり、ゲームをしたり、水戸黄門を見たり、健康体操をしたりしている。人は楽しい生活環境がいかに重要か痛感させられた。それから往診の神様と地域の人から本当に手を合わせて拝まれている赤ひげ、同級生であり医師会仲間の先生にも助けられて現在に至っている。
 
 どこかで聞いたようなセリフだが「あれから40年」前期高齢者介護保険証が届いた。これから先の人生は全く未知数である。仲間たちとの付き合いや政権が代わって今年は高速道路料金が無料化になることだし、あちこち移動して新しい発見をするのを楽しみにしていた(実際はほんの一部の無料化でした)・・・腰のふらついた落ち着きのない政治家のうそつき!!
 
 まとめとして、人は時としてオアシスが必要であり、結局は人生って大したことないと思った。
 
(文責)相談員 植原 哲
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